男は街中に広がる都市構造物群の中を、ガスマスクをつけて歩いていた。
煙たくて油臭いこの街をマスク無しで歩くことは不可能だろう。街は常に濃度の濃いスモッグに包まれていて、建物にはいたるところに排気ダストが虫のようにくっついている。男にとって信じられないのは、この場所に新しいオフィスがあるということだった。
当然街には人の気配はまったくなく、建物は真っ黒に汚れていたり、ひびが入っていたりして整備された様子が無い。全ての建物がかろうじで原型を留めているが、廃墟同然だった。
しかも男には重大な心配事があった。
実は会社からもらった地図を見ても、ここがどこなのかわからない。この地図はおそらくずいぶん古い地図で、建物が増えすぎている上に暗くて辺りがよく見えないのだ。いまやどっちから来たのか、新しいオフィスがどっちにあるのか検討がつかない。つまりは迷ってしまったのだ。
男がガスマスク越しにシューとため息をついたとき、何者かが男の肩を叩いた。男は驚いてくぐもった声を上げた。後ろに立っていたのは小柄な中年の男だった。中年は男と同じくガスマスクをしている。その目はどんよりとしていて不健康そうだった。
こんなところで何をしているんですか。と中年は訊いた。ガスマスク越しだととても聞こえにくい。
男は新しい職場に向かう途中で道に迷ってしまったこと、それと出来れば案内を頼みたいことを伝えた。それに対し、中年はいかがわしいという目を向けていた。
あんた。こんなところに会社があると思っているのかい?
え?と思わず聞き返した。
あんたあれでしょ?会社の重大な秘密を見ちゃったから、こんな所に呼び出されたんでしょ?
でしょ?といわれても男にそんな覚えは無かった。会社ではいつも書類整理ばっかりだし、単純なミスを繰り返していたので飛ばされたものだとばかり思っていた。
中年はまるで悟ったようにうなずいた。
まあそういうこともあるもんだって。さあ、殺されないうちに街を出たほうがいいよ。そういい残すと中年は走り去っていった。
道を聞いていないことを思い出して呼び止めようとしたが、すでに中年は見えなくなっていた。男は途方にくれて立ち尽くしていた。
もし中年の言うとおりだとすると、自分は殺されてしまうのではないのか。しかし、会社の重大な秘密とはいったい何なのだ?そんなもの書類の中に混ざっていた覚えもないし。もしかして部長が飲みに使った領収書の束のことか?いや、そんなことであの気の弱そうな部長が殺しまでするとは思えないし……。
男が立ち尽くして考え込んでいると、後頭部に何か硬いものが当たって、低い声が聞こえた。
動くな。O証券の山瀬だな。
男は体を硬直させたが、頭の中でかなり慌てた。もしかしてこいつが殺し屋なのか?でもO証券なんて会社は知らないし、自分は山瀬なんて名前ではない。
そのことを言うと、後ろからガスマスクを外されてしまった。ひどい臭いに思わず鼻を塞いだ。殺し屋は男の髪を掴んで顔を上げさせた。
すると殺し屋は驚きの声を上げた。
しまった。こいつじゃない。ターゲットは40前後の中年の男だった。
男は鼻を塞いで涙目になりながら、逃げた中年を思い出した。そうか、あの男。自分が狙われていたのか。
殺し屋は何やらトランシーバーで連絡をとっている。男はその隙に地面に転がっているガスマスクを拾って急いで装着ようとした。焦って手元が狂うが何とか装着して、ゆっくり深呼吸した。殺し屋は罵声を飛ばしながら走り去っていった。
間違いとはいえ殺されなかったことにほっとしたが、それでもまだ男は助かったわけではなかった。依然として会社の場所は分からないし、本当に自分が狙われていないと決まったわけではない。
男は再び途方にくれて立ち尽くした。
すると、今日三度目となる声が、再び後ろから聞こえた。
今度は女の声だった。ガスマスク越しだが高い声だったので判断できた。
すいません。迎えにいく予定だったんですけど、所用で遅れてしまいました。
どなたですかと男は訊いた。
本社から来た人ですよね。私は事務職を担当としております。と女は言った。
では、本当にこんな所に会社があったのか。あの中年男に会うまで信じていたことなのだが驚いてしまう。しかし、ガスマスクが必須の上に間違えて殺し屋に殺されそうになるような所に通勤しなければならないのか。そう思うと再びため息がもれた。どうしましたと訊かれたが、頭を振って答えないことにした。
では向かいましょう。割と明るい女の言葉とは裏腹に男には心配事が山積みになっていた。