「あー、今日もいい天気だな」
安部加奈子は空を見上げてうめいていた。猫一匹いない、何にもない田んぼ道でポツンと一人空を見 上げていた。
しかし空は無情にも雲が覆い始めていた。加奈子は悲しそうな表情で急速に覆いかぶさる雲を眺めて 、最初の一滴目の雨を額で受けた。雨粒は形のいい鼻筋を伝って流れ落ちる。
それから、雨は怒涛のごとく降り始めた。6月の夕立だった。
雨はあっという間に加奈子の制服をずぶぬれにした。美麗な濡れ鼠は惨めそうにうつむいた。田んぼ は泥水で溢れて、小さな沼をいくつも並べていた。
加奈子は古びた革の鞄から黒の折り畳み傘を取り出した。それを開けようとするが、なかなかうまく いかない。しばらく傘と格闘していたが、骨が折れて、中で引っかかっていることがわかると、傘を 使うことを諦めて田んぼに放った。放った傘は、水を跳ね上げて小さな沼に沈んでしまった。
傘の入っていた鞄は開けっ放しになっていて、雨が入り込んでいた。教科書やノートのインクが滲ん でしまっていた。
傘を取り出したときに開いた鞄から携帯電話が落ちた。雨の音が強くて落ちた音は聞こえなかった。 水に弱い精密機器の携帯電話は濁った水溜りに落ちて、使用不可能となってしまっていた。加奈子が それに気がついたのはノロノロと歩き出してしばらくしてからだった。淡い水色の携帯電話は水溜り から救出されたとき、泥がついて泣いていた。加奈子は携帯電話を慈しむように眺めて、スカートの ポケットにいれた。
ついでに鞄の口も閉じておいた。
それから黒い蜘蛛の巣のような田んぼ道を、延々と加奈子は歩き回っていた。水を含んで泥のへばり ついたローファーは一歩歩くたびに、ぐしゃぐしゃと鳴らしていた。長い髪が顔にへばりついて表情 はよく見えなかった。
遠くで鐘が鳴っている気がした。やったりしたテンポで鳴り響いていた。激しい雨の中、ぐしゃぐし ゃぐしゃと靴から水が溢れる音が五回鳴ると、ボーンという鐘の音が一回鳴ってハーモニーを奏でた。気がした。
でも雨の日は鐘が鳴らない。だから加奈子には明日の音が聞こえた。気がしたのだろう。
雨が晴れる。
予定に無い雨雲はその身を引いた。
加奈子は雫が落ちる前髪を払って、裂けた雲から広がる太陽の光を見上げた。
「晴れちゃった……なあ」
鐘の音はもう聞こえなかった