私は憎しみのない世界が一番すばらしい世界だと信じていた。
去年の秋、私は大好きな姉を失った。
そのころ姉は結婚したばかりで、その先には幸せな結婚生活がまっているはずだったのだ。
姉の結婚相手はお金持ちだった。だけど、姉はそんなことは関係なく彼を選び、彼はお金の力を借りずに姉をただ愛した。この二人はすばらしい愛で繋がっており、二人の間を裂くことなんて誰にもできないだろう。私はそう思っていた。
姉の結婚相手には以前付き合っていた彼女がいた。
その彼女はお金目当てで彼に近づいたのだが、結婚のことを考え始めたころ、彼はそのことを見破り、彼女と別れた。
彼女の計画は台無しになり、プライドを傷つけられた彼女は彼の結婚相手である姉を憎んだ。彼女は思ったのだそうだ、どうせあの子もお金目当てでしょう、と。
彼女は、突然包丁を持って二人の新居に現れ、何もいわずに姉を刺した。
彼女の勝手な憎しみが姉を殺した。彼女は姉を刺した後、その場から逃げ出した。彼女は一ヶ月行方不明だった。
姉の結婚相手はあまりの悲しみに気がおかしくなった。
そして、ある日彼は消えた。
書き置きも何もなしに消えてしまった彼は数週間後発見された。彼は山の中で遺体となって見つかった。姉を殺して逃亡中だった彼女と一緒に。
こうして私は憎む相手もいなくなって呆然としていた。
私は半年の間部屋にこもって過ごした。
こもっている間にいろいろなことを考えた。どうして姉が殺されなければならなかったのか。どうしてこんなに悲しみが膨れ上がってしまうのか。
私は一つの結論に達した。
人が人を憎まなければ悲しみは広がらない。世界は平和になるのだ。
ある寒い冬のことであった。
私はまだ部屋にこもっていた。部屋の隅で毛布をかぶって丸まっていた。実際のところ今が本当に冬なのかどうかすらもわかっていない。日付を数えるのは当の昔にやめてしまったからだ。それに私の中では、あの時から一秒たりとも時間がたっていないように思われた。
遠くで女の人の声が聞こえた。
誰だったか、姉の声に似ているが、違うことはよくわかる。
音を立てて扉が少しだけ開かれた。私は見向きもしなかった。ことりと何かを置いて、すぐに扉は閉められた。
「……お姉ちゃん」
私はもう何度めになるかわからないほど口にしたその名前をつぶやいた。
大好きな姉はもういない。そのことがはっきりしていて、余計に悲しかった。また名前を呼べば現れるのではないか、私を抱きしめてくれるのではないか、そういう風に思えたらよかったのに。格好悪いかもしれないが、それでもまだそちらのほうがよかった。
「どうしてお姉ちゃんが死ななきゃいけなかったの。あんなに優しくて、温かい人だったのに」
そうやって何度自問しただろう。
私は何度自問しても飽き足らなかった。いつも同じ答えを考える。だけど、その答えのとおりに世界は動いてはくれない。
みんなお姉ちゃんみたいに優しかったらいいのに。誰かを憎むことなんかなくて、にこにこ笑いあって生きていければいいのに。そうすればこんな悲しい思いをする人は誰もいなくなるのに。
「憎しみが消えてくれればいいのに……」
私はまどろみの中にいた。
いつの間にか部屋は消えてしまっていた。私は毛布を被っていなかった。
私はふと急激に落下していく感覚に襲われた。辺りは真っ暗で、時折小さく輝くものが見えた。まるで星のようだ。
私はどこまで落ちてゆくのだろう。このまま地獄まで落ちるのだろうか。そう思うと怖くなった。地獄とはまさに憎しみに満ちた場所ではないのか。それとも憎しみを断罪する場所なのだろうか。
どんなところかわからなかったが、今いる場所より悪い場所なのだろうか。私には今いる場所より悪いところが思いつかなかった。もしこのまま地獄に落とされるとしたら、そこはもしかすると永遠に続く現実なのかもしれない。
途端に、加速していた体は止まった。というかまったく重力を感じなくなった。私は体一つでふわふわとどこか知らない場所をさまよっていた。今度はまったく光のない闇の中だった。
「憎しみのない世界が欲しいかい?」
どこからか声が聞こえた。
誰とは訊かずに、「ええ」と答えた。
「それなら作ってみるといい」
声は言った。
そんなことできるわけないじゃない。そう言おうとした。だけど、私は唐突に気がついた。私はさっきまでどうやって言葉を発していたのだろう。口を開く?喉を震わせる?そんなものが私のどこについているというんだ。
「できるさ」
ほら、伝わった。
「ただし、ルールがある。君はその世界の住人になる。そして、もう二度とやり直しはきかない」
あの世界よりも悪い世界になるはずがない。私は確信していた。
それどころか、みんなが幸せでいられる素晴らしい世界なんだ。誰も憎まない。それだけのことで人は幸せになる。私は救われるはずなのだ。
「いいでしょう。では世界の元をばらまく。後は君しだい」
声は次第にフェードアウトして消えていった。
闇の中に一人取り残された私は少しわくわくしていた。
そんな期待を形にしたかのように、辺り一面に光の粒が散らばった。光の粒は私の周りに集まり、ぐるぐるとゆっくり漂って、私の願いを訊いた。
私はただ祈った。
憎しみのない世界が欲しい。
光の粒は激しく渦を巻いて、すごい速さでひも状に伸びていった。はるかかなたの私には見えないようなところまで伸びると、大きくはじけた。はじけた光の粒は、大きく取り囲むように広がっていった。
やがて、私の周りは光でいっぱいになった。
「お姉ちゃん」
そう呼ばれて振り向くと、妹がエプロン姿で片手に皿を持ってにっこりと微笑んでいた。
「お昼ごはん。どうしたの?ぼーっとして」
「なんでもないよ」私はそう答えて、テーブルについた。
妹は私と違って料理ができるのでよかった。こうして両親が不在のときでも妹がいればレンジでチンするような寂しい食事をしなくてすむ。
「お姉ちゃんったら、まだ着替えてないの?嫁入り前の女の子がそんなんでどうするのよ」
妹は昼時になってもまだパジャマ姿である私を見てため息混じりに言った。
「やだー、まだ結婚するなんていってないじゃない」
私は思わずにやける頬を両手で押さえた。妹は呆れたように肩をすくめて料理の乗った皿を並べた。
妹が言っているのは、この間私の彼氏が両親と会っていたのを見ていたからだろう。しかも私の両親は彼を気に入ったようでなかなか楽しそうに話していた。まあ私としてはそろそろ結婚も考えてくれないかなーって思っていたところなんだけど。
「いっただっきまー」
「いたたきます」
二人で手を合わせていただきますをしてご飯に箸をつけようとした。
すると、妹はぴたりと箸を止めて席を立った。
「そうだ。もうすぐドラマの再放送が始まるんだった」
妹は小走りでソファーの上に転がっているリモコンを取りに行き、テレビをつけた。
いつからこんな生活が続いているのだろう。いや、私にはわかっている。私はついさっき、この世界にやってきたということが。だけど、ここはずっとそうしてきたかのように日常を送っていた。
妹はとても大人っぽくて綺麗な女性だった。その容姿は前の世界にいた私の姉にそっくりだった。そして、こちらに来てからまだ対面していないが私の彼というのは前の世界の姉の婚約者にそっくりなのだ。
どうして、なんて考える必要はなかった。
ここは私が望んで作った世界なのだ。すこし関係は違うが、私の好きだった人間が私の周辺にいるのはおかしなことではない。
私が作ったこの世界はやはり温かかった。
やはりそうなのだ。私の望んだ世界はみんなが幸福でいられる世界なんだ。
「なーにご飯頬張りながらにやついてんのよ」
ご飯を食べながらにやけていた私を妹が注意した。
「いやー、さすがは私の妹。このまま専属コックになってもらいたいな」
「まったく。料理ぐらいできなきゃ旦那に逃げられちゃうよ」
「いいもん。二人で仲良くつくるから」
「ばか」
そういって妹は微笑んでいた。
もう一度大好きな人と笑いながら食事ができるなんて夢にも思わなかった。
これこそ私の望んでいた幸せだ。もう誰にも奪われやしない。
私は笑いながらそう信じていた。
幸せな世界にひびが入ったのはそれから数時間後のことであった。
ドラマの再放送が終わったあとのニュース番組でのことだ。
どうやら大きな事故があったらしい。玉突き事故で、二人が重傷なのだそうだ。よく見てみるとそこは家から車で三十分ほどの場所であった。
「ねーねー、事故だって。Y市のスーパーの近く」
私はテレビを見ながら慌てて妹を手招きした。
妹はフォークをくわえて食べていたチョコケーキを皿ごと持ってテレビの見えるところに立った。
「一人重傷だって、大丈夫かなあ」
妹は私の言葉にまったく無反応だった。
振り返ってみると、妹はフォークをくわえたまま固まっていた。
「どうしたの?」
声をかけてみても瞬き一つしない。
テレビには救急車やパトカー、警官らと共にぐしゃぐしゃになった車が映っていた。
あれ?
私はその車に見覚えがあった。
どこにでもありそうな白い軽自動車だ。見覚えのあるそれと同じとは限らない。私は頭からその可能性を振り払おうとした。
しかし、そのときフォークが地面に落ちる音がして妹が口を開いた。
「……お母さんの車だ」
「えっ」
私はどきりとして振り返った。
心臓が飛び跳ねていた。いつの間にか手が震えていた。
「助手席にある熊のぬいぐるみ……私が、誕生日に贈った……」
妹の声も震えていた。
妹は立ち尽くし目を見開いてテレビを食い入るように見ていた。
「そんな、だってお母さんは今日、お父さんと一緒に出かけたんでしょ。だったらあの車に乗ってるわけが」
私はどうにか落ち着こうと頭を働かせた。
そうだ。今朝、二人は一緒に出かけたはずなのだ。なら父さんのシルバーの車で出かけたに決まってる。
そこまで考えて、私はとんでもないことを思い出してしまった。
「そうか、父さんの車。車検に……」愛車を車検に出し、父さんは母さんの車に乗っていた。小心者の父は代車を汚したり壊したりしないように、母さんの軽自動車を乗っていたのだ。
テレビはもうすでに別のニュースを伝えていた。
私の耳にはそんなニュースはまったく届かず、会ったこともないはずの両親のことを思い出していた。
「そうだ、電話、電話しないと」
われに返ったのか妹は慌てて携帯を取り出して、両親のどちらかに電話をかけた。妹はみていられないぐらい取り乱して「おねがい、おねがい」と繰り返し呟いていた。
私はただ不安で、そのようすを見ていただけだった。
「お母さん?お母さん?」電話が繋がったのかと思い、妹は大声で電話の向こうに呼びかけたが、やがて肩を落として電話を切った。
あまりに痛々しいその姿を見ていられなくなった私は、そばに駆け寄って崩れ落ちそうな妹を抱きしめた。
「大丈夫、きっと大丈夫だよ」
なんの根拠もないが、私は繰り返した。
やがて妹の口から嗚咽が漏れて、妹は声を上げて泣いた。
きっと、大丈夫なのだ。本当にあの車が母のものかもわからない。もし、事故にあったとしても重傷の二名に私の両親が入っているかもわからない。もし、重傷だったとしても、助かるかもしれない。
そうしていると、突然家の電話が鳴った。
それは悪魔からの連絡に思われた。
私の両親は事故で重傷を負い、母は亡くなった。
葬儀のとき、妹は母の遺体にしがみついてわんわん泣いた。終始「わたしのせいで」と嘆いていた。
葬儀の後で聞いたのだが、妹は母にある買い物を頼んでいたそうだ。それを買うために店へ向かっていた時、あの事故が起こったらしい。
でもそんなことを妹のせいにできない。偶然が重なった結果なのだ。だから私は「あなたのせいじゃないから」と妹を慰め続けた。
大怪我を負っていた父さんは葬儀が終わったあとに目を覚ました。
父さんは「どうして」を繰り返した。
その日が終わるころには父さんは何も話さなくなってしまった。
妹も塞ぎこんでしまって、もう以前のように笑顔を見せることはなかった。
私は一人ぽつんと家のリビングの床に座っていた。
結局同じだった。
私の幸せな世界はあっという間に壊れてしまった。私はうずくまって絶望した。
だが、これはまだ世界の崩壊の序章でしかなかったのだ。
母の葬儀が終わって一ヵ月後、妹が死んだ。
私がいつものように妹の部屋に食事を届けに行ったとき、いつもなら部屋のすみでうずくまっているはずの妹が見当たらず、どこにいったのだろうかと部屋を見渡したところ、私は妹を発見してしまった。
部屋の真ん中で首を吊っている妹を。
妹の遺書には両親に対する謝罪と私に対する謝罪とお礼が書かれていた。
翌日、私はふらふらと父が入院している病院を訪れ、泣きながら妹が自殺したことを告げた。父はいつものように呆けた顔でその知らせを聞いていた。
私は、もう父には何を言ってもわからないだろうと思っていた。
しかし、その翌日。父は死んだ。
庭にいた病院の看護婦が上から落ちてくる父を目撃したそうだ。父は病院の屋上から飛び降りたのだった。
父は私の話を聞いていたのだ。そして妹まで死んでしまったことの責任をとったのだった。
二人の葬儀を呆然と過ごした私は、葬儀の次の日から部屋にこもった。
もう何もしたくなかった。私が下手に動くことによって誰かが死ぬのはいやだった。
私は誰もいなくなった家の中で震えて過ごしていた。誰も食事を持ってきてくれないので、お腹がすいたときだけ外に出てちょっと食べ物を買ってきた。だけど、買ってくる食べ物は半分も食べずに捨てていた。
一度だけ、彼が訪ねてきた。
彼もまた私の家族が死んでショックで、しばらく私に会うのが気まずかったようだ。おそらく彼は腐敗したごみの散らばった私の家に驚いていたことだろう。
私は顔も見ずに彼を追い返した。
同情なんていらなかったからだ。そして彼もまた私のせいで死んでしまうのではないかと恐れたからだ。彼は潔く帰っていった。
その数日後、電話がかかってきた。
一度は無視したのだが、すぐ二度目がかかってきて、私はしぶしぶ電話をとった。
それは彼の両親からの電話だった。
彼が身を投げて死んだという。
その晩、私は家の中でめちゃくちゃに暴れまわった。家の中にあるものを手当たりしだいに壊した。
私の世界は完璧なはずだった。ここでなら幸せを見つけられるはずだった。憎しみがなくなれば幸せな世界になるはずだったのだ。
私は喉がかれるまで金切り声をあげた。
翌朝、喪服を着て彼の家に向かった。
だが、彼の家では葬儀の準備にかかっているという様子はまったくなかった。恐ろしいほど静まりかえっていた。呼び鈴を鳴らしてみても誰も答えるようすがない。鍵は開いていたので私は失礼だと思っていても勝手に家の中に中に入った。
嫌な予感がしていたのだ。そしてその予感は見事的中してしまった。
彼の両親は家の中で死んでいた。二人で薬を飲んだようだ。薬のびんがそばに転がっていた。
私は腫れた喉で悲鳴を上げてその場から逃げ出した。
どこをどう走ったのかわからなかったが、私は喪服のままどこかのコンビニに逃げ込んだ。
私はコンビニに入るとすぐに異変を察知した。やけに静かだ。コンビニには誰もいなかった。客はともかく店員すらいないのだ。
私はともかく不安になり、店員を呼んだ。
がらがら声で何度も呼んで、まさか本当にいないのではないかと思ったそのとき、店員は現れた。
店員は老けた男だった。やけに疲れた顔をしてうつむいていた。
「ああ、今日はもう店じまいです」
二十四時間営業のコンビニはこんなことを言うはずがない。私は彼の家であったことを誰かに報告したかったのだが、先に理由を尋ねた。
「どうということはないですよ。みんな自殺しちゃったんです。新聞読んでないんですか?自殺が流行っているんです」
どうして、と私は店員につかみかかりそうな勢いで訊いた。
「あたりまえじゃないですか。身近が誰かが死んだときに、どうしてって考えるんですよ。それで、よくよく考えてみると自分に責任があることがわかるんです」
店員はコンビニのエプロンの右ポケットの中に手を入れた。そこは膨らんでいて、なにか入っているようだった。
「だから」
店員はポケットから右手を出した。そこにあった黒いものが姿を現した。
間違いなくそれは拳銃だった。
私は恐怖した。店員がポケットから拳銃を出したことにより、これから恐ろしいことが起こるのだと確信した。
店員はそのまま流れるように自分のこめかみに拳銃をつきつけた。
「私も、責任をとって死のうと思います」
私は何もできなかった。
目の前で引き金を引く店員を止めようともしないで、ただ呆然と見ていた。
どさ、と店員の体が仰向けに倒れ、辺りが赤く染まってゆく。
私はひざをついて泣いた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
誰も誰かを憎まなかった。誰も人のせいにしようとしなかった。なのに悲劇は起こってしまった。
誰も悪くはなかった。
結局、私は現実世界で起こったことの言い逃れができなくなっただけであった。憎しみのない世界ならば幸せであるはずだった。だけど現実はそうではない。だから私は幸せになれないんだって。
私の作った世界は重要な要素が欠けていたかのように不安定だったのだ。だからこの世界は少しの揺れで崩壊してしまった。
もう憎しみがなければ、などという言い訳は通用しない。私はこの世界を作った者として責任を取らなければならない。
私は倒れている店員の手から拳銃をもぎとった。
そして拳銃を自分のこめかみにつきつける。
「お姉ちゃん。私もそっちにいくよ」
そういったものの、私は姉のところに行くのだろうか、それとも妹のところにいくのだろうか。しかし、どっちでも同じだ。どっちも同じ私の大好きな人だった。
そして私はその両方に謝らなければならなかった。
「ごめんなさい」
私は涙を流して謝った。姉や妹や、いろんな人に向けて、ごめんなさい、と謝った。
私は引き金を引いた。
アトガキ 09/3/26
この話は思いついたときに忘れないよう慌てて書き始めたのでなにやら妙にせかせかしたものなってしまいました。
これをもっとじっくり書けばもうちょっとましになるかなーっとも思ったんですけど、実際そんなことをすれば自分の気力がもたないことは確実なのでこんなぐらいにしておきます。
あとしっくりくるタイトルがぜんぜん思いつかなかったのでこんなテキトウな感じになっちゃいました。まあ随時タイトル募集中ってことにしときます。…………誰が応募してくれるんだ。