孤独





悪魔が光臨した。

老人は真っ赤な字でそう書かれたプラカードをもって、目を真っ赤に腫らし、狂気じみた様子でプラカードに書かれていることを叫んでいた。もう何時間も。声はとうに嗄れていて、がらがら声の聞き取りにくい叫びであった。それでも老人は口からつばやたんと一緒に血を飛ばして訴えていた。

老人が誰にも相手にされないのはここが駅前ではなく公園だからだ。この場所では誰も迷惑だと思っていないのである。

どうして誰も気づいてくれないんだ。悪魔が光臨したんだ。みんな悪魔に殺されてしまう。

老人は嘆いた。

悪魔は女でも子供でも容赦しない。男でも女でも関係なくみんなむちゃくちゃに犯されるんだ。腕や足を切り取りとられて、目をえぐられて、体中を焼かれて殺されるんだ。無我夢中で言葉を紡いだ。

オニウサギの散歩をしていた女が公園を通りがかった。公園に入ろうとすると、女はすぐに老人に気がつき、顔をしかめて公園から出ようとした。

老人は女に訴えかけた。

悪魔が光臨した。

女は聞こえないふりをして、公園を離れた。しかし、突然女の目の前に大きな音をたてて何かが落下し、女は悲鳴を上げて立ち止まった。オニウサギが走り出した。女はロープを離してしまい、オニウサギはあっという間にどこかへ走り去ってしまった。

落下したのは木製のベンチの背もたれだった。赤いペンキで、悪魔が光臨する、と書かれていた。女は恐る恐る振り返った。

老人は公園の入り口で女に向けて叫んだ。真っ赤な手でプラカードを掲げて、必死に、何度も叫んだ。悪魔が光臨した。

女はわけのわからない悲鳴を上げて逃げ出した。しかし、すぐにヒールが折れてしまい、女は前のめりに転んだ。そして、その時にオニウサギが逃げたことに気が付いたらしく、女の名前を叫び、靴を脱いで裸足で走っていった。

老人は公園の入り口で恨めしそうに女を見送った。

その後公園には人一人現れなかった。それどころか烏の泣き声すら自然に遠ざかっていった。ただ厳しく冷たい風だけが公園に吹きつける。

老人は膝をついて天を仰いだ。企業の宣伝飛行船がどこか遠くの町の夜をにぎやかすために空高く飛んでいた。老人は涙を流してかすれた声で、悪魔が光臨したんだ、と呟いた。飛行船は高速で飛び去ってしまった。

老人はプラカードを持ってゆっくり立ち上がり、魂が抜けたように弱弱しい足取りで公園を後にした。

老人が向かったのは地下鉄の駅だった。

駅にいる大量の人々は、老人の泣きはらした真っ赤な眼と掲げられたプラカードを見て、各々の嫌そうな顔を向けて遠ざかった。

老人はかすれた小さな声で訴えかけた。悪魔が、光臨したんだ。

すぐに駅員が来た。二人の駅員は老人を見るとお互い顔を見合わせてため息をついて、しぶしぶといった風に二人で老人の腕を掴んだ。老人はすがるような目で駅員に向かって言った。悪魔が光臨した。駅員は帽子を深くかぶり、何も答えずに老人を誰にも迷惑のかからないような場所に引きずっていった。

老人はただ、悪魔が光臨した、とばかり呟いていた。

駅から少し離れたゴミステーションまで来て、二人の駅員は息をあわせて老人を放り投げた。老人は腐敗臭のする大量ゴミ袋の中に埋もれた。

厄介物を遠ざけた駅員たちは最後にプラカードを老人に投げつけると、ぶつぶつ悪態をつきながら帰っていった。

老人はゴミのなかでもがいた。しかし、大量のゴミの中ではなかなか身動きが取りづらく、几帳面でない住民の捨てたゴミ袋が開いて腐った生ゴミが降りかかってきただけであった。老人は腐ったバナナの皮を頭に乗せて、嗚咽を漏らした。

ゴミステーションは工業地区の端の日中誰も来ない薄暗い場所にあった。ゴミ回収車などはとっくに巡回をやめてしまっている地点であった。捨てられているゴミは誰にも気づかれないまま長い年月をそこで過ごしてした。

そして新たに加わったゴミは壊れたように繰り返し同じことを呟いていた。枯れ果てることのない涙が見開いた赤い眼から次から次へと溢れていた。

ゴミステーションに近づく者がいた。一日のうちに三人もの人がこの場所に訪れることは滅多にないことだ。

彼女は一人だった。薄汚れた、ところどころに縫い直したあとのあるボロボロの修道服を着た長い黒髪の女性が、栗色の瞳を輝かせてゴミステーションに歩み寄り、ゴミの中に埋もれてしまっている老人に手を差し伸べた。その端正で美しい顔は微笑を浮かべて、澄んだ声で、大丈夫ですよ、と囁いた。

老人は信じられないという風に驚いてそのまま固まっていたが、やがてくしゃっと顔が崩れて嗚咽を漏らしながらひたすらに、ありがとう、ありがとう、と言って手を伸ばした。

老人は修道服の女の手を借り、ふらふの足で立ち上がって、彼女の首に抱きついた。修道服の女は生ゴミの臭いを放つ老人をまったく嫌がることなく、優しく背中を叩きながら大丈夫ですよ、と囁きかけた。

老人は子供のように長い間泣きじゃくった。一日中さんざん涙を流した後だが、老人は真っ赤な目でさらに泣いた。すでにがらがらになってしまった声でさらに泣き声をあげた。

しばらく泣いた後、老人が落ち着きを取り戻すと、修道服の女は緊張した様子で老人に訊いた。

「悪魔が、光臨したんですね?」

彼女の口元は微笑を浮かべていて、彼女の目は真剣であった。

老人はとても嬉しそうな様子でポケットをごそごそとあさって、ボロボロの紙切れを出して見せ付けた。

「そんなことより聞いてくれ。実はわし、宝くじが当たったんだ。33万だぞ。すごいだろ」

自慢げに宝くじを持って意気揚々と語る老人に、修道服の女はとても冷たい眼差しを向けた。






アトガキ 12/8

一応SF設定風です。もっと言えば幻想未来都市(まだ言ってるか)です。オニウサギ散歩してるあたりとか。

ちなみにオニウサギは自分の中のイメージでは頭ににょっきり二本の角が生えてるウサギさんです。オニウサギが主役のSFヒーロー映画が大ヒットして、それ以降オニウサギブームが起こったという設定を今考えた。なんだそりゃ。

しかし、これ最初書いた時「子ワニ」だったからそれに比べればマシか。なんだ子ワニって。ワニを公園に連れてくるなよ。今度から子ワニ禁止の看板立てとくぞ。