とある廃ビルの屋上。
そこから見える夜景はまさに絶景だった。暗闇に無数の星を散りばめたような夜景は誰もを感動させることができるであろう。ただ冬場はとても寒いことだけが唯一の欠点だった。
この屋上に上がってくる一人の男がいた。その男は手袋やマフラーはおろか、薄汚れたTシャツとジーンズといった、実に寒そうな格好をしていた。おまけにしきりに手に持ったカイロをなでている。
こんな廃ビルの屋上にくるのはこの夜景を知った者か、自殺志願者のどちらかだ。そしてたいてい後者である。
しかし、その男は自殺などする素振りは全く見せず、持っていたレジ袋からアンパンを取り出した。うまく袋が開けられないのか、アンパンに悪戦苦闘していた。もしかすると浮浪者かもしれない。そうも 思えるが、浮浪者よりは綺麗な身なりをしている。
夜景を目的として来たのだろうか。しかし、男はようやく開いたアンパンの袋からアンパンを取り出して嬉しそうにほうばっていた。まるでアンパンを食べるためにここへ来たかのようだ。無論、そういう わけではないようだが。
アンパンの最後の一切れを口の中に放り込むと男は不適に笑い、あんこを口にくっつけたまま走り出した。無論道などないし、跳ぶためでもない。男はフェンスに向かって全力で走り出したのだ。
男はスピードを落とすこともなく、それどころかぐんぐんスピードを上げていった。男はフェンスを突き破ってもなお、加速し続けたのである。
加速し続ける男の体は闇が包んでいた。闇の合間から赤い光が軌跡を描いていた。男の闇は漆黒の鎧である。まるで甲殻類を模したようなごつごつした漆黒の鎧だった。
男は暗闇の空へそして星の散りばめられた夜景へと踊り出た。廃ビルに残されたのはアンパンの袋とまだ暖かいカイロの入ったレジ袋だけだった。
*
「……ひそひそ……最近この辺りの悪餓鬼共が殺される事件があったんだって……ひそひそ……」
「……ひそひそ……怖いねえ、まあ迷惑なやつが少なくなったらこっちも大助かりなんだけどねえ…… ひそひそ……」
「……ひそひそ……うちの息子にも悪さしないように言い聞かせたほうがいいかしら……ひそひそ…… 」
スーパー帰りであろうおばさん達の会話に耳を澄ませている高校生の少年がいた。学ランを着ているが 、この辺りの生徒のものではなかった。そもそも普通なら授業のある時間である。おばさん達はその少年を警戒していそいそと離れていった。
おばさんが話を切り替えたため、興味を失ったのか少年もその場を離れた。
平日の昼間から、学ラン姿でぶらぶら歩いている不良だろうと通り行く人々は何気なく少年を避けてい た。自転車に乗った警察官まで避けているのだ。この町の人間は知っている。今時の子供の恐ろしさを 。
それというのも、この町では夜な夜な子供が徘徊して、親父狩りや掃除と称してホームレスをリンチす る事件が多発している。なんでも彼らの間で妙なグループが出来ているようだ。その一つに“ハーケン クロイツ”と名乗る不良少年集団がいる。
しかし、先日このハーケンクロイツのメンバーが集団で殺さ れた。全員が全身をバラバラにされてコンクリートの地面に転がって、電燈の光を浴びていた。
この事件があっても不良少年達の勢いは弱まらず、逆にさらに多くの集団となって町を支配し始めたのだ。なんでも犯人に大金の賞金が出たらしい。
これに対して大人達は恐ろしい世の中になったものだとぼやいているばかりだ。この世の中をつくってしまったのは他ならぬ自分たちであることを完全に忘れて、自分のすることはあくまで自分の周辺にしか影響しないと思い込み、その波紋が広がってしまったのは時代のせいだ行政のせいだと呻くことしかしらない。本当に恐ろしいものが何なのかを、だれもわかっちゃいなかった。
少年は事件のことなどを知ってか知らずか、この町を嗅ぎまわっていた。今日の朝、始発でこの町に来たかと思えば、人々の噂話に耳を傾けていた。人々は怪しい少年に関わるのがいやなので注意もしなかった。自分たちの迷惑にならなければそれでいいのだ。
*
少年は廃ビルの屋上にいた。
すでに日が落ちかけていて、廃ビルの屋上から見える夕焼けもなかなか風情がある。カラスの鳴く声と車の通り過ぎる音が時々聞こえた。
少年は屋上に落ちているレジ袋を拾い、視線を大きな穴が開いているフェンスに向けた。まるで大砲でも撃ち込んだような穴だった。誰一人としてまさか一人の男が走って突き破ったとは思わないであろう。
少年はしばらくフェンスの付近を調べまわっていた。行ったり来たり、立ったり座ったり。調べているというか、ここが道端であればただの挙動不審のようにもみえる。しかし彼は何かしらの目的を持ってフェンスに触れたり、コンタクトでも探すかのように地面を四つ這いになってキョロキョロしているらしい。
少年はその後完全に日が落ちるまで、さんざん屋上をうろうろした挙句、諦めたように両手両足を投げ出して仰向けに寝そべり両目を半開きにして夜空を見上げていた。今日は雲が厚く、星はまったく見えないうえに、相変わらず寒かった。
昨日と同じように、宝石が散りばめられたような美しく壮大な夜景が広がっていた。少年は夜景には気づいていないようで厚い雲の広がる空ばかり見ていた。
そうして22時を迎えたときだった。
屋上に一人の男が上がってきた。軽装で手にはレジ袋と使い捨てカイロを持っている中年の男だ。男は屋上に出るや、学生服を着た少年が寝そべっているのを見つけると驚いて半歩引いた。
「こんなところに何をしに来たんだ?」
訊いたのは少年であった。上半身を起こして半眼を据えて男を見た。男は黙ってその場に立ち止まってうつむいていた。
「こんなところに来るのは自殺志願者ぐらいだろう?あんたもその口か?」
少年は次いで訊いた。
「き、君はどうなんだ。学生がこんな時間に、こ、こんなところで何をやっているんだ」
男は震えた声で言い返した。
「探し物だ。怖がらなくても俺は別にあんたをどうこうするつもりはない。……まあ、あんたが何もしなければな」
「さ、探し物?こんなと、ところにか?ば、馬鹿なこと言っていないで、は、早く家に帰れ」
「……そうするよ……やることだけやったらな」
少年はそういい残して古びた階段を下っていった。残った男の額には脂汗がだらだら流れていた。
男は震える手でレジ袋からアンパンを取り出した。震える手ではアンパンの袋はなかなか開いてくれなかった。