ある人が言っていた。“逃げなければ道は開かれる”だそうだ。
そうは言っても危険な目に遭ったときはとっさに逃げようとするものだ。自分の命を守ろうとすることは人間として当たり前のことではないか。そう言い返した。
するとその人は言った。“人間として当たり前のことをしていては成長しない。自尊心と向上心を持ち続けた者だけに道は開かれるのだ”
俺はふとそんな言葉を思い出した。
そのとき俺は、だいたい道ってなんの道だよ、とかつっこんだりもしてみたが、その人はいつものようにケラケラ笑ってそれ以上のことは語らなかった。
しかし今俺は思ったのだ。ああ、道か。確かにこの突発的かつ絶対的危機を切り抜けるものは道以外の何物でもない。一秒一秒の生命の道が貴重な状況だからな。
さっきまではとてつもない恐怖と混乱から、逃げなければという思いが強く、しかも逃げ場がなくなってしまったことにより死の恐怖だけが体と頭を支配してしまっていた。しかし今はなんとなく冷静になることができた。
まずは俺のいる場所を確認。どことも知れない汚らしい袋小路だ。いつのものかもわからないごみと落書きだらけ。人の気配がまったくしない。叫んでも誰か人が来てくれるという保障はない。今さら携帯電話で助けを呼んでも死体を引き取りに来てくれるだけだ。つまり自力で脱出するしかないらしい。
ということで目の前の殺人鬼らしき狂人を観察。
身長約二メートル。筋骨隆々の半裸の男。体中に奇妙な紋様が描かれていて、両手でめちゃくちゃでかい鋏を持ち、荒い息遣いで歩み寄ってくる変態である。
奴の目的が恐喝であるならばお金を放って逃げるのだが、この変態はどう考えても今から恐喝しようという人間にはみえない。最終的目的がお金の奪取であるならば、巨大鋏などで脅す必要はないし、半裸である必要もない。その手段として殺人を行使することをためらわない人間であっても効率的でないのは同じだ。
「実はドッキリだった」という可能性もないわけではないが、その可能性に頼って死んでしまうのはごめんである。
ということは残る可能性は強姦か殺人。だとすると俺がこの男、もしくはこの男を利用したほかの誰かに恨みを買ってしまったことによる報復か、あるいは変態的快感を得るためのその行為自体が目的ということになる。
前者よりは後者のほうが生き残る可能性が高いかもしれない。どちらにしても相手が強い興奮状態で冷静な判断能力を失っていると思われるが、前者は計画的な犯行と思われ、後者は突発的な犯行である可能性が高い。用意周到な犯行から逃れるのは難しいだろう。
しかし、いずれにしても冷静な判断能力を失った相手は混乱に陥りやすい。もしほんの少し動揺させることができれば、道は開かれるかもしれない。
そう考えるとだんだん勇気がわいてきた。俺はかなり優位なのかもしれない。相手は力で勝り、その上凶器を持っているが、俺は相手に対し圧倒的な判断能力を持っている。この場の死闘に勝つことはないが負けることはないはずだ。
鋏の長さが一.五メートル。腕の長さを考えると攻撃まで後五歩。相手は勝利を確信してゆっくりと歩み寄ってくる。
相手が変態である限り、叫んだところで何か効果があるとは思えない。俺は何か使えそうなものがないかポケットをごそごそと漁ってみた。携帯電話を投げつけてやろうかと思ったが、個人情報の塊である携帯電話を変態に投げるのは後々困ったことになりそうだ。
と考えていた時、突然ポケット入れた手の中で携帯電話が振動した。
おもいがけないタイミングの着信に俺は一気に動揺してしまった。そして頭の中が混乱状態のまま相手の番号など見る間もなく通話ボタンを押してしまった。
「よかった。まだ生きてるね」携帯電話から聞こえてきたのは知らない女の声だった。俺はさらに混乱してしまった。
「頼む、助けてくれ!殺されそうなんだ!」相手が誰だかわからなかったが、相手は俺の危機を理解している様子なので俺は今にも泣きそうな勢いで叫んで助けを求めた。
「知ってる。あと四十秒でそっちに行くから、それまで耐えて」
「四十秒!馬鹿言うな、あと十秒もしないうちに俺は真っ二つにされちまうんだぞ!」
「あーうるさい。死にたくなかったら他力本願はやめなさい。あなたが本当に生きたいと思うのなら、自分でどうしたら生き残れるか考えて勇気を持って行動しなさい。自尊心と向上心を持たない人間に道は開かれないのよ」
ふと気がつくと、男が随分接近していて、鋏を大きく開きこちらに突き出していた。とっさにかがんで頭を下げると、凶悪な音とともに頭上で鋏の刃が合わさった。
恐怖が津波のように押し寄せて背筋に何か冷たいものが走った。
俺は恐怖に陥りながら何か懐かしい感覚を感じた。
そうだ。どうしてさっきあの人のことを思い出したのか、わかった。似ているのだ。あの人に会ったときと。
確かあの時、俺は何かとてつもなく恐ろしい何かに襲われていて、もうだめだって思ったとき、あの人がさっそうと現れたのだ。
格好良かった。まるでテレビのヒーローのようであった。まだ小さかった俺は子供心に感動したものだった。
俺は震える手を押さえて携帯電話に向かって叫んだ。
「あと二十秒で来い。それまで生き延びてやる」
「了解。がんばってね」女はやけに余裕そうに答えて電話を切った。少し怖くなったが、なんとかこらえた。
昔のことを思い出していると、なんだか冷静さを取り戻せる。あの人は来ないけど、助けは来てくれるんだ。あとはそれまでのほんの少しの時間を生きていればいい。
男はわけのわからない低い叫びを上げて閉じたままの鋏を大きく振り回した。俺はとっさに後ろにさがり鋏を紙一重でかわす。鋏の先端が上着を一文字に裂いた。
俺は注意深く相手を見ながら上着を脱いだ。
男は振り回した鋏の勢いで少しふらついていた。俺は覚悟を決めて男に向かって走った。
男が鋏をこちらに向ける前に、勢いよく上着を男の頭にかぶせる。そしてそのままの勢いで男の脇をすり抜けた。
よし、これで大丈夫だ。
そう思って安堵しかけたとき、強い衝撃が俺のわき腹を直撃した。
車にはねられたような衝撃を食らって俺は吹っ飛ばされ、壁に激突した。肺の中の空気が搾り出されるような苦しさと内臓が破裂したような痛みを同時に受けた。
どうやら頭を打ったらしく、意識が朦朧としてきた。早く逃げなければと思うのだが、体がピクリとも動いてくれない。
死が一気に近寄ってきた。その恐ろしさにこのまま目を閉じてしまったほうが楽なのではないかと思われた。
だけど俺はなんとか意識を失わないように、閉じかけた瞼を懸命に開こうとしていた。
死は最大の安息だと、誰かが言っていた。
確かに今ここで意識を失えば俺はこれ以上痛い思いも苦しい思いもすることはない。目先にある安息を求めようとするのは人間としてしかたのないことだ。
だけど、そんなことを認めてしまってはいけない。あの人は言っていた。
男が頭の上着をはぎとり、こちらに歩み寄ってくる。
男の目からはまったく生気が感じられなかった。寝ぼけているかのように半分目を開いて、なにやらぶつぶつつぶやいていた。こいつは俺を殺すだろうと、十分にそう感じさせられる不気味さだった。
男が鋏を振り上げる。
自分でも信じられないことに、俺はこの時になっても生きる手段を考えていた。もう瞼を開けているだけが限界で、何をどうしても体が動かせないからどうしようもないのだが。随分と諦めが悪い俺は思い出にもふけらず、心の中で親や友人にお礼を言うこともなかった。たぶん今死ぬとしたらそれはとても格好悪い死に様だろう。
「よくやった」
声が聞こえた。どこかで聞いて事がある声だ。
もう目の前が真っ暗で何も見えなかったのだが、切れかけていた俺の意識はそんなことも認識できていなかった。とにかくその声に安心した俺は、そのまま安らかな眠りに落ちた。
目が覚めたら部屋のベッドの上だった。らよかった。
目が覚めたとき、俺はまだ路地で壁にもたれかかっていた。それだけならよかったのだが、ついでに身長約ニメートルの半裸の変態鋏男もいまだ健在であった。
ただ、ありがたいことに二人きりではなかった。男二人のむさくるしい空間に美少女が乱入してくれたようだ。
しかしその女の子はどうみても普通の格好をしていなかった。レースクイーンのような赤いぴっちりした水着を着て重そうなごついトランクを持っている。なんかのコスプレか?
実はヒーローショウに間違えて乱入したのかと思ってしまったが、そういえばわき腹を思いっきり蹴られたんだっけ。普通、ショウでここまで力入れないよなあ。
でも彼女はヒーローショウみたく戦っている。
いつの間にか男の鋏は半分の長さになっていた。男は狂ったように短くなった巨大鋏を片手で振り回していた。
トランク少女は常に鋏を間一髪で避けている。笑みを浮かべているところからまったく余裕らしい。髪の毛一本切らせるつもりはないようだ。
「パンドラ!空間湾曲装置」
彼女は誰に向けてなのか、そう呼びかけた。
すると突然、トランクが開いた。しかも開いただけでなく、無数のパーツに分解したではないか。ばらばらになったトランクのパーツはうねうねと回転や合体を繰り返して、どんどんその形を変形させ、あっという間にトランクがSF映画に出てくるような巨大な銀色の銃になってしまった。
丸太のような大きさのその銃を少女は脇に抱えながら男の大振りの攻撃をかわし、後ろに下がると男に向けて右手で引き金を引いた。
その瞬間男の姿が消え、その代わりに男のいた場所、半径二メートルほどの空間に巨大なシャボン玉のような虹色の球体が出現した。
「パンドラ、湾曲空間を転移!」
少女がそう命じると球体は一気にしぼんで、消えてしまった。
男がいなくなると一気に静かになった気がした。風の音がよく聞こえる。
少女がこちらを振り返ったとき、俺は再び気を失った。
アトガキ 09/3/6
何か読みやすい連載が書きたい。という思いつきから書きました。
そうは言っても今まで何度か連載に挑戦はしてきましたけど、ことごとく挫折しています。そこで今回は今度こそという思いもあるので念入りにストーリーやら表現方法も考えたんですけど、考えているだけで何も進まなかったのでいっそのこと何も考えずに書こうということになりました。
なので設定もストーリーもほとんど決まっていません。はたして本当に完結するのか、っていうかたぶん完結しないかも。
まあそんな試験的な連載なので連載予定小説とでも言いましょうか。
そんな連載予定小説なんですけど、実はさっそく課題が山積みです。というかこれを始まりとした時点で問題なので、もしかするとプロローグ的なものを追加するかもしれません。だいたい、早く設定をつくってしまわないと先に進めません。
……これ、続くのか?