猫女は南の島に行こうと言い出した。
丸刈り頭はそのときのことを一生忘れないだろうと思った。彼は猫女のそれほど真剣な顔を見たことが無かった。
猫女はいつものように青黒い作業着を着て、先の欠けた岬に腰掛けて灰色の海を眺めていた。二つ穴の開いた麦藁帽子からふさふさの耳が飛び出している。頭の耳と顔の横についている耳のどちらが本物の耳なのかは、誰が何度訊いても教えてくれない。
海は静かに波を立てていた。
その波は一艘の漁船を運んできた。
それは廃棄処分になったものを安値で買い取った物で、あちこちぼろぼろの泥舟のようなものだったが、最低限動けるように丸刈り頭が修復した。
その船体には赤い丸といっしょにたどたどしい字で大きく“猫丸”と書かれていた。
彼女の要望でこの船は猫丸という名前になったのだ。こればかりは自分でやりたいと言い出してペンキまみれになりながらもなんとか書き上げた。
二人はその船の操縦者にお金を払って、海で気をつける事や旅の仕方について訊いた。操縦者は親切に教えてくれた。その中でも特に忘れないようにと言った事が二点あった。
一つ、海と空をよく見ること。
海や空には必ず何かしらの予兆がある。それが嵐や突然変異生物から身を守る事になる。そしてその予兆はいつ現れるか定かではない。だから常に海や空に耳を傾けなければならない。
一つ、絶対に旅先の人を信用しないこと。
どんなに親切そうな人でも絶対に信用してはならない。唯一信用できる人間は妥当なお金を払って妥当な物を淡々と提供してくれる人だけだ。
二人は操縦者にお礼を言うと操縦者は背を向けてどこかへ去っていった。
二人は顔を見合わせるとくすっと微笑んで船に乗り込んだ。丸刈り頭は猫女の手をとって、猫女は尻尾を振りながらよじ登った。
そうして二人は旅に出た。
この時の二人は知らなかったのだが話に聞く南の島はずいぶん遠かった。しかも二人のとった航路は遠回りだった。
燃料を節約しながらそこへたどり着くまで五年はかかる距離だった。
二人はまず西にある街で旅に必要な物を揃えた。
しかし、まったく旅を経験した事の無い二人はさっそく教訓を忘れてしまっているようだった。
見知らぬ商人の愛想笑いにつられて幸福の石とやらをとんでもない高額で買わされてしまったのだ。二人は満足そうにそれをペアのネックレスにして首から提げていると、今度は本当に親切な人がその商人が悪名高い詐欺師だということを教えてくれた。ついでに自分が買った腕輪も見せてくれた。どんな宝石商人にみせても、どんな霊媒師にみせても価値がない事を教えてくれたそうだ。
二人はそこで一つ学んだ。しかしそのネックレスは気に入ったようで旅の間ずっとつけていた。
二人には旅に向いている点が二つあった。
丸刈り頭は船の操縦の飲み込みが早かった。波や風を読むのも得意だった。なので旅は思いのほか順調に進んだ。
猫女は魚を獲るのが得意だった。そして調理するのが難しい変異した魚でも器用に料理を作った。なので旅の食料は意外と困らなかった。
二人はその二つの長所をいかして南を目指した。
旅を始めて三年ほどすると、ようやく旅の半分ほどの道のりを超えた。その頃になると二人は船の旅にも慣れてきたようすで、わりと快適に過ごしていた。
三年経っても変わらないのは二人が“大”のお人よしということだけだった。騙されることは少なくなっていたが、ゆく先々で困っている人に手を貸してその結果こちらが損をする事だって多いのに二人は人助けをやめなかった。
猫女はその間に歌をたくさん覚えた。
毎日飽きもせず歌を歌っていた。
猫女が歌う歌はいつも明るくて楽しい歌だった。猫女も丸刈り頭も鳥のさえずりのような楽しい歌が好きだった。猫女の声は広い海に優しく沁みこんだ。
ある時、二人は一人の吟遊詩人に出合った。
その吟遊詩人は毎日毎日町外れの廃屋に訪れてはそこに住む子供達のために歌を歌っているそうだ。吟遊詩人の歌っている歌は希望の歌だった。希望を見失ってそれを信じない子供達は彼の歌をまったく聴かなかった。しかし、彼はそれでも歌を歌い続けていた。
猫女はその吟遊詩人と一緒に子供達の住むという廃屋を訪れた。
そこにはボロ布をまとって裸足の足がずたずたになっている子供達がいた。彼らの目は憎しみや嫉みによく似た物だった。その目がやっかいものの吟遊詩人と見た事のない猫女を見上げていた。そして彼らのナリを見るとまた視線を床に戻し膝を寄せて座ってただ一言、帰れ、と言った。
吟遊詩人は歌を歌い始めた。猫女も歌を歌った。手拍子をいれながら明るい希望の歌を歌った。廃屋に命が戻った。
しかし子供達は苦痛を訴えた。吟遊詩人の歌も猫女の歌も全部嘘だと知っていたからだ。もしかしたら本当かもしれないと思いそうになるのが怖かった。
その結果、吟遊詩人と猫女は廃材を投げつけられて廃屋を出て行く事になった。
猫女と丸刈り頭は予定より長くその街に滞在する事になった。丸刈り頭は割りのいい日払いの仕事を見つけて小銭を稼ぎ、猫女は吟遊詩人と歌を歌いにいった。丸刈り頭はそれについて何も言わなかった。
二人がここに来て三日目のことだった。
丸刈り頭は猫女をこの街の名所である。高い高い噴水の祭りに誘った。猫女はこの日は歌いに行かず、坊主頭と一緒に高い高い噴水の祭りを見てみる事にした。
二人が見に行った高い高い噴水は七百年前に造られた高さ七十メートルの巨大な噴水である。その噴水は十年に一度高々と水を噴き上げる。その水は十年の間教会で清められた聖水で、それを浴びた者は長生きするという言い伝えがあるのだ。
廃墟の子供達がこの祭りについて思いつく限りの批判をしたのは言うまでもない。吟遊詩人もそんな子供達のために今日も歌を歌いに行くと言っていた。
噴水には五つの大きな受け皿がついていて、下に行くほど大きくなっていた。街の人々はその受け皿に乗って聖水が降り注ぐのを待っている。
猫女は水が苦手なので丸刈り頭と一緒に遠くで見ていることにした。
人々はがやがやと噴水に群がって天を仰いでいた。その視線は噴水のてっぺんにある天を見上げた獅子の像に注がれていた。その獅子の口からまもなく聖水が降ってくるはずだ。人々はその瞬間を待っていた。
二人は少し離れたところにあるベンチで同じくその瞬間を待っていた。
唐突に猫女は歌を歌い始めた。
その歌は丸刈り頭が初めて聴いた歌だった。その歌は誰も聴いた事がない歌だった。
その歌は猫女が初めて自分で作った歌だった。
優しい響きは噴水に群がる人々にも廃墟にいる子供達にも届かなかったが、丸刈り頭には良く伝わった。
歌が終わると、丁度噴水が獅子の口から吹き出した。狂ったように歓声が沸き、人々は上から降り注ぐ聖水をかぶった。
そして遠くから見たその姿はたいそう綺麗だった。
祭りは夕方まで続き、二人はめいいっぱい遊んで、すっかり疲れ果てて宿に帰った。
宿で部屋の鍵を借りると、猫女は思い出したように外へ出てそのまま子供達のところに行くと言って、走り去ってしまった。
おそらく祭りで買った駄菓子を嬉しそうに抱えていたのでそれを届けるつもりなのだろう。丸刈り頭は先に部屋で休むことにした。
丸刈り頭がその夜、安心して眠れたのは廃墟で何が起こっているのかを知らなかったからだ。
廃墟は猫女がたどり着いた時には家の半分が崩れ落ちた無残な姿に変わってしまっていた。
子供達が泣いていた。吟遊詩人は崩れた廃墟の中に入って必死になって瓦礫をどけていた。その瓦礫の下には一番小さな女の子が埋まっていた。
猫女は吟遊詩人と一緒に崩れた廃墟の中に入って行った。
数分後、そこから出てきたのは吟遊詩人と怪我をした犬耳の女の子とその女の子よりも深い傷負った猫女だった。
女の子と猫女は急いで医者の元に運ばれた。
丸刈り頭はそのことを猫女の死とともに早朝に告げられた。
その時の丸刈り頭の顔はこれ以上ないぐらい不安そうに歪んでいた。丸刈り頭は頭の中で三年前の猫女の言葉とその時の表情を鮮明に思い出していた。
丸刈り頭は子供達よりも大きな声で泣いていた。
猫丸は南の島を目指していた。
丸刈り頭はいつものように船の舵をとっていた。
いつも猫女がいた甲板には青黒い作業服を着た犬耳の女の子が潮風を浴びていた。胸のペンダントが静かに揺れた。
彼女は歌を歌っていた。
明るくて楽しい歌は広い海に優しく沁みこんだ。
二人は旅を続けていた。
アトガキ
猫さんと丸刈りの話。
気を抜けば丸刈り頭と坊主頭を打ち間違えてしまう。っていうか最初から坊主頭にしとけばよかった。最初に何も考えずに書き始めたのがまずかった。