時々どうしようもなく死にたくなることがあるらしい。あ、俺の話じゃない。あいつの話だ。
そんなときは馬鹿みたいに喚いて疲れて眠ることが一番なんだそうだ。そうすれば死にたかった時の感覚を忘れてまた生き続けることができるらしい。
俺にはそんな感覚、まったく理解できない。だからあいつは俺の顔を見るたびに「死にたくなった?」と訊いてくるのだ。俺はいつも顔も見ずに「ならない」と答えた。
あんまりそんなことが続いたため、もしかしたら俺はずっと死にたがっているんじゃないかと思えてきた。だから死にたくないときのことを思い出せないのではないのかと。
まったくもって馬鹿馬鹿しい考えだ。馬鹿馬鹿しいが、妙に気になった。だから俺は今ここにいる。
そう、俺の一歩前には何もない。下を向くと小さな緑が囲んだ白いグラウンドのなかで黒い転々がうごめいている。
振り返ると少女が立っている。眼鏡をかけたボブカットの背の低い少女だ。彼女はこちらをみて微笑んでいる。その微笑みにはどんな意味があるのか見当もつかない。
「どう?怖い?」と少女が訊いた。
「……めちゃくちゃ怖い」と俺はひきつった笑顔で答えた。
実際足はがくがく震えているし、少し風が吹いただけで腰が抜けそうになる。これにて実験終了だ。俺は死にたがってなどいない。こんなにも死が怖いのだから。
俺は慎重に高いフェンスを登った。もし、足を滑らせたら死にたくないのに死んでしまう。しかも、おそらく死んだら自殺として片付けられてしまう。まさか死ぬのが怖いかどうかを検証するために屋上のフェンスを乗り越えて足を滑らせて死んだなんて誰も思わないだろう。一応証人としてはこの少女がいるのだが、果たしてこいつが本当のことをいってくれるのかどうか。正直言ってまったく信用できなかった。
なので俺は全神経を使って慎重にフェンスを乗り越え、無事広い足場に降り立った。少女が俺の上着を持って微笑みながら歩み寄ってきた。フェンスに引っかかるといけないので上着を持っておいてもらったのだ。
「残念だなー。もしかしたらって思ったのに。案外普通だね」
「当たり前だ。死ぬのは怖いに決まってる。俺は死にたくなんかなったことがないし、これからもない」
「その根拠は?」
「……死ぬのがどれほど怖いのか、ついさっき思い知った」
俺はそう言うと、彼女から上着を受け取った。
「っていうかほんとに死んだらどうするつもりだったんだ?」
「後追いでもしようかなと」
俺は絶対に死なないでおこうと心に決めた。
「これ見て」
それは極楽浄土の世界を描いた本であった。
図書委員の俺は放課後、図書室で本の整理にあたっていた。俺がせっせと本を運んで並べている間にあいつは俺に付きまとって坊主のようにありがたいお話を続けるのであった。はっきりいって邪魔者でしかないし、こいつが取り出してきた書物は俺が片付けなければならないのだから迷惑以外の何者でもなかった。
「……つまり極楽とは心身ともに苦しみから解放され、幸福になるための材料がそろっているところなのです」
「だから?」
俺は『ホッシーの初心者にでもわかる星占いの本上下巻』を本棚に詰めながらそのありがたいお話を右から左へと受け流していた。このあたりの中級スキルはこいつと一緒にいるといやでも身につくだろう。
「死にたくなったでしょ?」
この少女は笑顔でこんなことをいうのだ。
「ならない」
極楽云々のすばらしさを俺に伝えてあの世に行ってみたいという気にさせようとしたのだろうが、俺はそんなことじゃ死にたくはならない。
「……諦めが悪い人だな」
「それはお前だ」
『アダルベス来航に向けて今私たちがすべきこと1〜3巻』を現代小説・エッセイの棚に入れ終わった俺は大量の書物を抱えて説法を続けている少女から半分ほど本を奪った。これでもまだ5冊ほど持っている上に机の上に10冊ほど乗っている。
「あっ、何するの?」
「片付けるんだ。借りるか?」
「借りないけど……いきなり奪い取るのはどうかと思うよ」
「じゃあ片付けるのか?」
「……せっかく図書委員がいることだし」
「じゃあ文句を言うな」
俺はせっせと本を戻した。悔しそうに机にうつ伏せになってにらんでいるやつがいるが。
だいたい片付け終わった後、一冊の本が残った。『死なないための生活』というタイトルだが、どう考えてもうちの図書室にある本ではない。持ち主は察しがついたが、なんとなく本を開いて冒頭の部分を読んでみた。
ここで言う死は自殺を意味します。死なないためにはどうするか、この本ではそれを考えてゆきます。なんだこれ?
「あ、それは私の」
急に声を上げたので反射的に振り返ったとたん、ものすごい勢いで本を取り上げられた。
「いきなり奪い取るのはどうなんだ?」
「あ、いや、えーと……君にこの本を読まれたらまずいからだよ」
なるほどそんなに俺に死んでほしいのかこいつは……。
俺はため息を一つついて司書室に向かった。司書室は図書室カウンターの裏にある部屋で、司書の先生が待機するところのことをこう呼んでいる。今日の仕事は終わったのでその報告をしにいかなければならない。
俺は司書の先生に終わったことを告げ、図書室を出た。あいつがいないことにも気がついたが、あえて気にすることでもないだろうと思い、そのまま下校した。
数日後、俺は駅周辺の商店街を歩いていた。
今回ばかりはくじけそうになる。周りの視線が痛かった。みんながこっちを見て指差して笑っている。冷や汗が背中を伝う。走って逃げたいという衝動に駆られた。
それもこいつのせいだ。今俺の隣で歩いている背の低い少女。なんでこいつはこんなにニコニコしてやがるんだ。……そうか、俺が苦しんでいるからか。
「ねえ楽しいね」
「……楽しくない」
少女に声をかけられるが俺は顔を背けてぼそっと呟いた。
「え?なんて?あはは、楽しいね」
そんなばかな。俺が苦しんでいるとはいえ、楽しみすぎだろこいつは。周りの痛い視線をなんとも思わないというのか。案外こいつは捻じ曲がってるとはいえかなりの精神力の持ち主なのだろうか。いや、それだけ俺が苦しんでいる様が面白いと考えるべきなのだろうか。
そもそもこんなことになったのも昨日、俺がこいつの誘いに軽々しく乗ってしまったせいだ。よく考えてみればこいつが何の魂胆もなしに俺を遊びに誘うとは思えない。しかし、俺は大ファンのロックバンドのチケットを渡されて断ることなんて頭になかったのだ。
あのときばかりは死神少女が天使にみえたからな。
「なあ」
さすがにもう耐えられない。俺は重々しく口を開いた。
「ん?」
「まさかこのままライブハウスに入るつもりか?」
「もちろん」
「そのカエルスーツでか!?」
こいつは今カエルを模した服をきている。いや服というよりもはや着ぐるみか。耳つきのフードの下に眼鏡をかけた少女が笑みを浮かべている。今思うと小さい子供のパジャマ着のようにも見える。かわいらしいといえばそうだが、隣で歩かれるのは果てしなく恥ずかしい。
「……暑いぞ」
「へ?」
「ライブのノリでその格好が認められたとしても、見るからに通気性の悪そうなその着ぐるみじゃ蒸れて大変だぞ」
「…………」
やった。結構効いてるみたいだ。
「ほら、あそこに公衆トイレがあるから着替えて来い」
「……着替えなんて持ってきてない」
なんと。最初からこいつは着替えることなんて考えていなかったのか。つまり俺は今日帰るまでずっとカエルが隣にいるということか。
俺は周囲の痛い目線と笑い声を思い出すとかなり憂鬱な気分になった。
「どう?死にたくなった?」
少女はカエルの着ぐるみを着て笑顔でこう言うのだ。
ある日のことだった。
俺は図書委員の引継ぎも終えて下校しようとしていた。すると下駄箱であいつが待っていた。
いつもならスルーして帰ろうとしたところをあいつが五月蝿くつきまとってくるのだが、今日は一言声をかけてやった。妙に悲しそうにうつむいていたからだ。
俺がどうしたんだ、と言ってやるとあいつは無言で帰ろうとした。不審に思った俺は追いかけていって隣を歩いた。
しばらく無言のまま歩いていてもうすぐ駅の近くの商店街が見えてくるというところで、あいつは口を開いた。
最初はたわいもない話だった。勉強のこととか、音楽のこととか、テレビのこととか、普通の高校生のような話題だった。思えばあいつと普通の会話をしたのは初めてだった気がする。そうこうしていて駅にたどり着いた。あいつと俺とでは降りる駅が違うが、電車は同じだ。いつも車内で俺を自殺へと追い込もうとしているので周囲の人間から不審がられていた。
しかし駅のホームに入る前にあいつは言いにくそうに話をした。
あいつは自分が親の都合で遠い田舎に引っ越すことを話した。当然学校は転校することになり、俺を自殺に追い込むこともできなくなる。
最後に俺は悲しそうにうつむいている少女に訊いた。
「どうして俺に自殺させようとしたんだ?」
「別に死んでほしかったわけじゃないよ。死にたくなるようにしたかっただけだよ」
「なんで?」
「私が生きるために。あなたと一緒にいたかったから」
「…………」
さらに少女は笑顔で言うのだ。
「死にたくなった?」
「……俺が死んだらどうする?」
「私も死ぬ」
「じゃあ死なない」
少女は笑顔で残念だな、と言った。それが最後に交わした言葉だった。
電車の中では二人とも無言で降りるときも何も言わなかった。あいつがどこへ引っ越したのかも知らない。だけど俺が生きている限りあいつも生きている。ならもう一度会えるだろうと、そう思った。
だから俺はまだ死にたくない。