アナザーロード





俺は走った。人ゴミをかき分けて必死で走った。

どこでもいい。足が進む方向に。体が動くままに、俺は逃げていた。

自分がやったことが信じられない。この手に残る感触があまりにうそみたいだった。いったいあのとき何がどうなったのかさっぱりわからない。ただ記憶に残るのは一枚の地獄絵図のような最悪のシーン。

頭の真っ白になった俺は気がついたら夜の繁華街に出ていた。

目が痛くなりそうな原色のネオンが涙が頬を伝う悲壮感あふれた俺の顔を照らしていた。恐怖に駆られた俺はうつむいて走った。

何度も人にぶつかって、ときどき怒声が後ろから飛んできたが、俺はそんなことをまったく気にせずとにかく走った。誰も俺に追いつけないように、足を休めずただ走り続ける。それでも背中にべったりと張り付いた冷たいものはどうしても振り切れない。

風は俺をあざけ笑って冷たさをまし、光は逃げる俺を見放した。俺は目の前に広がる闇に向かって駆け抜けた。闇はとても広くて、何者からも見放された罪人を受け入れた。

もうどれぐらい走ったのだろう。一生涯でこんなに走ることはもう無いかもしれないというぐらい走ったと思う。一時間ほど全速力で走った気分だ。

人気の無い小道に入ったとき、疲れて力の入らなくなっていた足がもつれて転んだ。冷たいコンクリートが俺の膝を裂く。

痛くて、怖くて、寒くて、泣いていた。

真っ暗で人の声も届かない。ただ俺が一人泣いていた。何度も拳を地面に叩きつけて泣きじゃくった。

こんなはずじゃなかったのに。何度も心に浮かんだ言葉が口からこぼれる。謝って済むならなんどだって謝ろう。神様がいたら俺のことを罰してくれ。それで許されるならいくらでも罰を受けよう。世のため人のために働くことも惜しまないし、困っている人がいたら助けるし、損し続ける生活をしてもいい。そんなことで俺の所業を許してくれるというのなら俺は何でもやる。俺にとってそれが救いだ。

お願いだ。だれか、俺を救ってくれ。

そんな俺の願いはどこぞへ届いたのか、はたまた届かなかったのか。俺の願いが神様に届いたのだとすればずいぶんユーモラスな神様であったのだろう。

俺に声をかけてくれたのはグラサンをかけた中年のおっさんだった。

「ぼうず、何やってんだ?」

俺はそのときその人を救いの女神だと思った。

少しハゲかかったグラサンをかけた胡散臭い女神なんて、できればいて欲しくないと思うが今の俺にとってはそれでも良かった。もしもそれが悪魔でも今の俺を救ってくれるのであればなんでもいい。いや、どちらかといえば今の俺を救ってくれるとしたら悪魔だろうな。

女神の(悪魔かもしれない)おっさんは俺に慈愛の笑顔を向けた。

「何があったか、わかんねえけど。どうだ、ラーメンでも食いにいかないか?」

「……ぁい」

俺はかろうじでそう答えた。





俺は寂しげな夜道を大きなサングラスをかけて頭のてっぺんまではげかかった胡散臭いおっさんと一緒に歩いていた。平常であればまったく嬉しくない状況だ。

おっさんは御機嫌に鼻歌を歌っていた。テレビで聞いたことがある、相当古い時代の歌だ。右手をポケットに突っ込んで左手を俺の肩に回している。自分の親父でさえそんなことしなかったので少し不思議な気分だった。それは悲しい気持ちにとても似ていた。

「なあ、ぼうず。夢ってあるか?」

鼻歌を中断して唐突におっさんは聞いてきた。

「……夢ですか?」

「ああ、夢だ。ドリームだ。俺がお前ぐらいの時にはな、プロ野球選手になりたかったんだよ。でもな、高校んとき甲子園の予選でボロ負けしちまって、それ以来野球はやってねえんだよ。ぼうずにもないか?そういうこと」

俺はそのときミュージシャンになりたいということを言っていた。ミュージシャンになって一発大儲けしてやるとまわりに吹いていた。しかし、所詮たいした勉強もしていない、家で気分が乗った時に弾いているだけの素人ギタリストだ。バンドも組んでなければライブにも出た事なんか無い。俺にとってそれは夢なんかじゃなかった。英雄願望が具体的な言葉になっただけのくだらない妄想だ。

おっさんは大口を開けて笑った。

「それじゃあ俺と似たようなもんだな。若い時はそういうこともあるってもんだ。親御さんはどういってるんだ?」

「親は……」

何か見えない物に背中から一気に突き刺された。脳まで冷たい電撃が走り、同時に凄まじい疲労が俺を襲った。体中から一気に汗が吹き出して喉がカラカラになった。頭がぐらぐらして自分が今何を考えているのかわからない。激しい耳鳴りがして、足がどうしようもなく震えて、その瞬間歩き方をすっかり忘れてしまった。ついさっき起こった出来事が俺の頭の中であまりに忠実に再現され、何度もエコーする。そして頬を熱い物が伝った。

「親御さん、どうしたんだ?」

歩みを止めて今にも倒れそうな俺に心配そうに言った。おっさんの姿を見ようとしたがまったく首がまわらない。目も動かない。それどころかいま自分が何を見ているのかすら認識できなかった。

「ゃは…………ぁわ…………」

呼吸が苦しい。酸素が足りていないんだ。はやく、もっと早く身体の中に酸素を取り込まなければ。心臓が今にも飛び出しそうなぐらい激しく打ち鳴っている。身体が酸素を求めている。心臓の鼓動を止めなければ。このままじゃ危険だ。苦しい。苦しい。コマ送りのようにあのシーンが再生される。やめろ。苦しい。さっき走った時なんかよりぜんぜん苦しい。そうだ。危険だ。はやく!

突然、呼吸が中断された。

何か大きくてやわらかい物が俺の口を押さえている。ゆっくり首を動かすと中年のおっさんが俺の口をふさいでいる。心臓がひときわ大きく跳ねる。危険だ。はやく。

俺はゆっくり腕を伸ばした。

おっさんが信じられないと言う風に俺を見ていた。危険だった。俺には見下されているように見えた。

可能な限りの力を腕にこめる。

はやく、はやく、こいつを、殺らなければ!





「うっせえんだよ!たまにしか家にいねえようなクソ親父が良く言うよ!」

「なんだとっ、誰のおかげで飯が食えていると!」

親父は最近買ったお気に入りのソファから音を立てて立ち上がった。吸いかけのタバコの灰が灰皿の上に落ちた。コップにいれた水がわずかに振動して小さな波紋をつくった。

「もうてめえの世話なんかにゃなんねえよ」

「お前一人で何が出来るって言うんだ。高校もろくに卒業できない奴に何が出来るって言うんだ?ええ?」

「やってやるよ!こんなとこ、二度と帰ってこねえよ」

家を出ようとした。玄関で腕をつかまれる。

「おい、待て!」

つかまれた腕を振りほどく。大きな物音。小さな悲鳴。

視界がブラックアウトした。

真っ暗な世界に流れるメロディー。知っている曲だ。テレビで流れていた、相当古い時代の曲だ。昔のテレビドラマの主題歌だったかな。

低い声がメロディーに乗せて歌を歌った。その歌はお世辞にもうまいとは言えなかった。

そして俺は気がついた。

ゆっくりまぶたを開けてみる。

テレビの中でどこか田舎の風景が流れていて若い男が走っている。男はある二股の道にたどり着いた。二つの道には何の違いも見当たらない。男は迷った。いったいどちらにいけばいいのか。

片方の道から女の子が歩いてきた。その女の子は手を伸ばして男を誘っている。男は女の子について行った。女の子はやたら険しい道をどんどん進んで行く。男は必死に後を追う。しかし、あるとき気がついたのだ。その道は男の向かうべき場所には繋がっていなかった。女の子は悲しそうな表情で男を見た。男は再び立ち止まって迷った。

画面が変わる。

俺は跳ね起きた。

そこは薄暗いカラオケの個室であった。向かいのソファで中年のおっさんがマイクを握り締めて熱唱している。

「……ここは?」

「おっ、気がついたか」

マイクを通して拡大された声でおっさんが言う。おっさんは曲を途中で中断してマイクのスイッチを切った。

「近場のカラオケに倒れたお前さんを運んだんだよ。ここしか休めるところがなかったんでな」

おっさんはにかっと笑った。そのとき俺はおっさんの首筋に何かに強い力でつかまれたような赤い手形がある事に気がついた。

「ああ、こんなもんなんて事無いよ。お前さんも気が動転してたみたいだったからな」

俺の視線に気がついたのか、おっさんは片手で首筋を隠した。

「俺が……それを?」

「なんだ……覚えてなかったのか」

「……すいません」

俺は申し訳ない気持ちでいっぱいで、頭を下げた。

「いいってことよ。それより、お前さんを落ち着かせるためにちょっと小突いたけど、大丈夫か?」

そう言われて後頭部の辺りをさすってみる。不自然にぼっこりしているところがある。触れると少し痛かった。

「なあ、お前さんにも複雑な事情があると思うんだけど、俺で良かったら話しちゃくれねえか?」

おっさんは真面目な顔で言った。

俺はやはり気が重くなったが、おっさんの首を絞めるような混乱は起こらなかった。

「はい、わかりました。…………俺は、その、とんでもないことをしてしまったのです」

「とんでもないこと?」

「…………俺は、親父を殺したんです」

「殺した?親父さんを?」

「……はい」

罪の告白は思ったよりもつらくはなかった。

自分が殺しかけた人間だからなのか、一度暴走したことで今は冷静になっているのか。

おっさんは神妙な顔つきで俺の話を聞いていた。

昨日、他校の生徒と喧嘩をして、今日、停学処分をくらった。その結果もとから無断欠席の多かった俺は今年で卒業できないことが決まった。そのことで親父と喧嘩をしたのだ。俺の親父はある会社の重役で海外をあちこち飛び回っていて家にいることが少なかったが、今日に限って親父は家に帰っていた。俺の学校での状況をよく知らなかった親父はこれに激怒した。イラついていた俺は家を出て行こうとして、親父に腕をつかまれ、その手を振りほどこうとした。すると親父はバランスを崩して倒れて、下駄箱の角に頭をぶつけた。親父が呼吸をしていないことに気がついて恐くなった俺は一目散に逃げ出した。

「お袋さんは?」

「お袋は小さい頃に死にました。だから家にはほとんど俺一人でした」

「そうか」

おっさんはしばらく黙ってうつむいていた。何かを考えているようだ。習うように俺もうつむいていた。

「なあ、ぼうず」

おっさんは真っ直ぐ俺の目を見て言った。

「うちにこないか?」

「おっさんのうちに?」

「うちの会社だ。たぶんお前さんから見れば少しばかり汚い仕事をしている。でも今のお前を保護してやる事が出来る」

突然の申し入れに驚いた。俺が、おっさんの会社に?

「で、でも俺は……」

「大丈夫だ。うちはお前みたいな少し訳ありの人間ばかりだ。かく言う俺も人には言えないこともしてきた」

つまりは人殺しでも受け入れられる裏の社会。そこに来ないかというのだ。このおっさんがそんなことをしていたことに驚いた。しかし俺はそれ以上に困惑していた。たしかに今の俺には罪から逃げられる方法もない。あとは警察に自首するだけだ。そうでなければ親父の遺体を誰かが見つけてそのうち俺も捕まる。

さんざん悩んだ挙句、俺は…………その提案を受け入れる事にした。

自首しても俺の罪は消えない。永遠にその罪からは逃れられないのだ。罰は罪を救わない。罰を受けて、再び社会に戻ってきた俺が親父を殺したことを帳消しにできるわけでもない。なら俺はその罪を背負いながら新たな道を選ぼう。

俺はその後久しぶりに笑った。





「ぼうず、早く用意しろ」

「はい」

俺はスーツを調えて外に待機させてあるベンツに向かった。

おっさんに雇われた俺は社長であるおっさんの下、様々な活躍をした。しかし、おっさんは決して俺を特別扱いはしなかった。俺の他にも罪を背負っている者は多いからだ。だから俺は自分に与えられた仕事を一生懸命こなしていった。

意外と俺はこの仕事が向いているらしく、何かおかしな事に対する読みが得意なのだ。不穏な空気を読み取る力が俺にはあったらしい。

俺は救いの女神(やはり悪魔だったかもしれないが)であったおっさんを今は第二の父親と思っているし、したっていた。おっさんの頼みとあらばなんでも聞いた。

しかし、今日の俺は気分が重かった。





ある日のことだ。大きな仕事を無事終えた俺は上司と話していた。その上司は頬に切り傷のある男で、何度か助けられたこともあり、俺はその上司を結構気にいっていた。

「しかしお前も随分成長したな」

「いえ、色々と助けていただいたおかげです」

「それでもすごいよ。お前はこの世界に足を踏み入れる覚悟って奴が十分すぎるぐらいあったからな」

「ええ、まあ」

人にほめられるようなことじゃないのだが思わず照れ笑いしてしまった。しかし、その後その表情は凍りついた。上司の一言によって。

「まさか親父さんを撃ち殺して、その後社長に拾われて親父さんを山奥に捨てたらしいな」

「いえ、親父は頭をぶつけて死んで、その後社長が極秘裏に火葬したって」

「ええ?そうなのか?俺の先輩がお前の親父さんを山に放り込んだって言ってたんだがな」





俺はベンツの運転席に乗り込んだ。

すぐに全てのドアをロックする。そして後部座席のおっさんをミラー越しに見ながら訊いた。

「俺の親父は俺が突き飛ばして死んだんじゃなかったんですか?」

「……訊いたのか」

おっさんはサングラスを外した。すまなさそうな表情が浮かんでいた。

「どうして隠していたんですか?」

「俺はこの世界に来て良かったと思っている。俺も大きなものを背負っていたがまったく後悔なんかしていない。そして俺はお前の中に俺を見たんだ。お前はいつか成功する。それがお前の幸せだと思ったからだ。だからあの後お前の家に行って、生きている親父さんを見つけたとき、親父さんにそう伝えたんだ」

「勝手ですね。その点では俺の親父そっくりです。自分の体験が全ての真実だと思い込んでいる」

「真実かどうかなんて終わってみなけりゃわからない。それよりお前はこれからどうするんだ?帰るか?それとも残るか?言っておくが普通の世界に帰ってもお前に居場所は無いぞ。お前はこっちに慣れすぎた」

スーツの内ポケットに手を入れた。

「道は二つじゃありませんよ」

俺は振り返っておっさんに拳銃を突きつける。おっさんの顔にはあきらめが現れていた。

「その道を行くとお前は間違いなく孤独になる。もう光も闇も助けちゃくれない。それでいいのか?」

「構いません。これから俺が行く道は俺が初めて自分で見つけて、自分で歩む道です。どんなに長くても、あるいは短くても自分の力で歩んで見せます」

「……そうか」

俺は引き金にかけた指に力をこめた。おっさんは最期に「すまなかった」と言って、俺は「ありがとう」と言った。

俺は二人目の父を殺した。





窓の外で銃声が聞こえた。

頬に切り傷のある男はコーヒーを飲みながら満足そうに社長椅子に腰掛けた。

計画通りだ。彼は社長を殺した。社長を消して、その一番の部下を帰れなくした。

彼に話した話には重大なうそが含まれている。

社長はその仕事を彼の先輩ではなく、彼自身に任せた。そして、彼は父親を殺さなかった。そのことは社長も知らない。さらにそれからいままで父親を脅迫していたのだ。余計なことをすれば息子を殺すと。

彼は新派閥のメンバーの一人に電話をかけた。

「ああ、俺だ。彼を捕まえてくれ、そう、殺すなよ。あいつにはまだ利用価値があるからな」

外はだんだん雲が広がってゆき、雨の気配をちらつかせていた。

新たな道は用意された。






アトガキ

金○先生を見てたら父親を殺したと思い込んで逃げた奴がいたんで、ならそのまま突っ走らせてやったらどうだろうと思って書いた。しかしどう考えても終盤端折りすぎである。ごめんなさい、気力が持ちませんでした。